meno mosso〜これまでよりゆったりとした人生を〜

今後5年間でやりたいことの中に「エッセイを書くこと」と書いてしまったので、人の目に触れさせ、自分の言葉を磨いていこうと思う。

時間

内山節さんの「自由論」の一部を読んだ。時間についてのお話である。

筆者は、時計の時間に支配されるようになって、時間を創造する自由を失ったという。"時間を有効に使う"はすでに時計の時間に支配されている。"時間を有効につくりなさい"が正しいのだと。

たった昨日、ドラマを見て、「やりたいこと」と「やらなければならないこと」をノートに書いてこなしていくことがいいことだと思ったばかりである。そして今日、それをする時間は「有効に使う」ではなく「つくりだす」ものであることを知った。

夏休みに、現代人には余白がないという講演を聞いてなるほどと思っていたが、「余白がない」ではなく、「余白をつくるという発想がない」のではないかと考え直した。24時間って案外何でもできるのかもしれない。平日は仕事で半分、睡眠に8時間使っても、残り4時間ある。何もできないと思っていた平日にも、好きなことをするには充分な時間が存在していたのである。なぜ今までそのことに気がつかなかったのか。

さて、話はもう一つ。この文章を読んでいて、思ったことがある。読み始めた部分に、時計のない学校のお話があったのだが、学校教育の中で時計の時間が価値基準になったのは、労働の価値基準が時計の時間で示されるようになったからだと説明がある。それでふとこう思った。学校現場は遅れているといわれる。それは認める。でも、それは、社会が変わるとそれに対応する子どもを育てなければならないから、社会の動きがあってからしか動けないのが原因なのでは、と。要するに、社会が勝手に変わって、それに対応せよと言ってくるから、こちらも合わせていっているのでは、と。学校でこのような子を育てたから、社会もそのような子に合わせて変われよ、ではないんだな。社会がこう変わったから、次はこんな子どもを育ててよ、なんだよな。遅れるも何も、そういう世界なのだから、簡単に学校は遅れているなんて言わないでほしい。もちろん、遅れているのは承知だから、社会から取り残されないように勉強はする。ただ、何も考えずに批判するのはやめてほしい。

話は飛んでしまったが、時間のつくりかた。すぐにでも見直したい今日この頃である。