meno mosso〜これまでよりゆったりとした人生を〜

今後5年間でやりたいことの中に「エッセイを書くこと」と書いてしまったので、人の目に触れさせ、自分の言葉を磨いていこうと思う。

文学的文章

 「世界中の人が物語を好きになれば、世界は平和になるかもしれないと思いました。こんなに楽しいことがあると知っていれば、人を傷つけたりしようなんて思わないはずです。」

 引き出しの中から発掘されたノートの中に、どこかで出会った考え方が記されていた。このノートを使っていたのは大学生のときだから、たぶん4〜5年前に出会って、しばらく忘れられていた考えなのだろう。

 教育課程が見直され、国語の授業から文学作品が減りそうになっている。いや、消えそうになっている。目先の受験にとらわれ、論理的文章と古典作品に焦点が当てられる。文学的文章も科目として残ってはいるが、カリキュラムを組む上で消さざるを得ない。生活に必要なのは、マニュアルを読むことで、誰もが簡単に理解できる企画書を書くことである。目下、それでいいのかもしれない。しかし、それだけで人間って生きていけるのだろうか。人の心をおしはかり、いろんな考え方を知り、自分の生き方もありなのかと思い……そんなことも必要で、それは文学作品からしか学べないのではないかと思う。論理的文章にも書き手の主張はある。素晴らしい考え方があり、中には表現として楽しめるものもある。ただ、少し足りない。楽しさや苦しさを知るには。

 「事実は小説よりも奇なり」という言葉があるが、事実とかけ離れた楽しさがあってもいい。現実では起こり得ない楽しさや苦しさがあることを知っているから、事実が貴重になるのだと思う。人ってこんなに楽しくなれると知っているから楽しいことをしたくなるし、こんなに苦しいことがあるのだと知っているから苦しいことが起こらないようにしたいと行動する。現実を誇張できるから伝えられることがある。それが物語で、文学作品だ。

 試験で良い点数を取らせることが一番だと思っていた数ヶ月前。文学作品は授業で扱いづらく、できれば早く終わらせたい単元だった。でも、苫の会で授業のアイデアをもらい、校内研修で先輩と文学作品が扱えなくなる寂しさを語り合ったことで、文学作品を扱いたくなった。文学作品とじっくり向き合うことが、国語の楽しさだ。登場人物の心に迫り、目の前の子どもたちの考えと向き合い、書き手が使った言葉や表現を呑み込む。楽しいことであると同時に、人とのつながりの中で生きていくには、最も必要だと信じていたことを思い出した。

 人には伝えたいことがあり、それをその人にしか語れない言葉で表現するということを伝えたかった。同じ考え方でも、表現の仕方は何通りもあることを分かってほしかった。教育改革で目先のことばかり気になる今、多忙な校務を言い訳に教科指導をおろそかにしている今、国語の教師になった理由をもう一度問いたい。私は、言葉には計り知れない力が宿っていると信じているから。言葉を操れる人こそ、幸せになれると信じているから。